lundi 16 octobre 2006 23:46
061015(裏)
日付が変わった、10月15日。嘔吐が汚血への変わらぬ情を示した、わたしはその行方を観察する、パーティの日取り、数字を見る、カレンダーの15の数字、数字を見る、15の下には、その下には、
息を吐く間もなく嵐のような吸気が起こり、声がほんの少しだけ漏れた。頭の裏からサーッと血の気が失せてくのがわかった。
あとは、声も出さず体も動かさず、ただわたしはそこにいて。
少し上を向いてただただ涙が溢れてくるだけで。
表情を作ることもなく動作をやめた硬い人形のようなわたしの身体の中で
内側から壊さんばかりに激しい慟哭が続いた。
だいちゃんが向こうの部屋から声をかける。「どうしたの?」
とっさに答える。「何でもない」
あれから、子供が大人になるくらいの時間が流れてるというのに、わたしはまだ、身体の中にこんな感覚を持っている。
偶然て、なんて、なんて、なんて、怖いの。
今日は、10月15日。
どれが一番先?
ああなったからこうなった、こうなったからああなった。
いけない、物事を何でも関連づけて考えてはいけない。
世界の事象は、すべて独立した存在である。
必然はない、すべてが偶然。
だからまるで特別なように考えてはいけない。
これくらいの偶然、これだけ偶然が揃っても、やっぱり偶然は偶然。
だから恐ろしい。
10月15日朝、薄い眠りのせいで早く目が覚める。
この日、わたしは誕生日を過ごした。
生まれて初めての、何の感慨も感銘もない、身体中に慟哭ばかりが激震した誕生日。
口から出てゆく言葉はすべて空気を上っ滑り。
だけどわたしは笑って話ができる。
子供が大人になるくらいの時間の流れの中で得た、技術。
この時間の流れもまた、15。
少しだけ忘れていた。
なるべく意識の外に置こうとした。
自分の意志ではなかったけれど。
それは技術、何のためにもならないけど、少なくとも生きてゆく技術。
それがどうして10月15日に日付が変わったとたんに、戻ってきた?
どうして、今日じゃなきゃいけなかった?
妊娠をして、腹に異物を抱き込むわたしは、日々どんどん身体が大きくなっていく。
怖い、まるで自分の身体じゃないみたい。
頑丈に作りを固める肉体は、内部の激震が漏れない仕組み。
ずっと華奢でひ弱で顔色のさえなかった身体が孕んできたものを、嘲笑うかのように、分厚い胸といかった肩はびくともしない。
いま、妊娠5ヶ月。出産までは、あと半分。
もしかしたら、やっぱり無理かもしれない。
それを忘れた頃に、なぜ戻ってきた?
人生の中で、ひどく取り乱したことが、はっきり覚えてる限り、二度ある。(きっと本当はもっとある)
一度目は中学の修学旅行の京都で、突然、自分だけが違うことを知って、とてつもない呼吸の乱れに、目は焦点が合わなくなり、膝はガクガクして立っていられなかった。(いま思えば、こういうのをパニック発作と言うんだろうか)
二度目は、何も起こらなかった。あまりにもひどく取り乱してしまったので、まるで普通に過ごしてしまった。
ずいぶん時間が経ってから取り乱したことに気付いた。そのとき起こったのが、それが今日、10月15日に日付が変わったとたんにやってきた現象だった。
これだけの時間が流れても、あの衝撃が身体の中に残っているなんて。
あまりのことに、自分が一番驚いてる。
この現象を身体が覚えたのは、無を知ったときだった。
何も、何も、何も、ない世界。
温度は絶対零度、エネルギーは最低になり、原子は静止してしまう。
後にわたしが量子の世界にたどり着いたのは、無に耐えきれず、零点振動を見い出したかったからかもしれない。
また日付は変わり、10月15日は終わった。
眠るとき、後から後から涙が出てくるけど、いまは声は出さずとも、鼻をすするのくらいは我慢しなくていいぶん、幸せなのだ。
眠るときは、誘導が必要。あまり喋りすぎないように、声ばかり聞かないように。
だんだん、文章にならない思考をし始めたら、導入成功。思ったより時間はかからなかった。
けれど、またあの悪夢を見てしまう。
この夢と、今回戻ってきたものは、関係ないのに。
不安が不安を呼んだのかもしれない。
10月16日昼、ひどく泣き腫らした目。
今日は病院に出頭命令が出てる。行きたくない。でも行かないわけにはいかない。
むち打って行くと、今日に限って研修医がいる。わたしから見れば、子供みたいな女の子。
どうせいてもいなくても、何も話せやしなかったけど。
わたしの様子がおかしく、ぽつりぽつりとしか話さないと、先生は必要最低限の話しかしない。
一つには、薬を飲んでまともに話せる状態にならなければいけないし、もう一つには、先生はわたしの口にルールが重たくのしかかってて開かないのを知っているから、無理にこじ開けようとはしないのだ。
ルール。誰が作った、何のためのルール。
そしてまた日付は変わり、17日がやってくる。
今年はまさかカウントダウン?
大丈夫、次の検診と外来は25日、それまでにはまたきっと遠くの方へ行ってるはず、そうしないと薬の量が元に戻らない。
恐慌なんてもう起こらないし、起こったところで、ただわたしがあたふたしてるだけ。
何でもないこと。
一人のとても幸せな人間がいました。
彼(または彼女)は幸せに暮らし、幸せに一生を終えました。
でも、彼(または彼女)が生きた時間、地球上には不幸せな人間がたくさんいました。
人間は、個人の幸せのためには、余計なものには目をつぶるべき?
そうすれば、彼(または彼女)が一生を終える頃には、彼(または彼女)さえ幸せであれば、すべて問題なく丸くおさまったことになる。地球上にどんなに不幸が積もっていても。
「でも、あなたにはあなたの人生を楽しむ権利がある」
と、昔、先生は言った。
割り切って、自分のために生きることを選べる強い人たちの言葉が、頭から離れない。
わたしは、彼(または彼女)たちと、独善的な人間の区別が、うまくつけられない。
個人に何ができるか、なんていう物理的なことは、わたしには問題だと思えない。
考えるスピードを緩めなければ。
誰かが、「一度考え出してしまったら、自分の力ではもうどうにも止められない。結論を導くまでは、赤い靴と同じ」と言っていた。
わたしは、無の世界でまで、踊ることを余儀なくされていたのか。
カーレンが両足首を切断してもらったように、考えるのをやめるには、息の根を絶つことに他ならないと、同じ螺旋にからまるような人間は、誰でも思うものらしい。
自由になりたい。
この地に捕らえるものから、この身体に縛り付けるものから。
とんでもなく巨大で強固な自我から。
睡眠は、まるで無みたいで怖い。だから朝まで無駄話でいいから続けていたい。
でも一度眠ったら、もう二度と起きたくないと、いつも思う。
10月15日、誕生日。
生まれて初めての、何の感慨も感銘もない、身体中に慟哭ばかりが激震し、あれだけかけた時間をタイムワープして、あの地点に戻ってしまった日。
この日から、歩けばそこかしこで、海の生物の悲壮な超音波が聴こえる。
Comments [0]