vendredi 13 octobre 2006 20:26
量子コンピュータ
「すいたんの考えには、ついていけない」と、だいちゃんは言った。
あわや離婚の危機か!
幸い、そんな話ではない。だいちゃんの言葉を正確に記述すると、
「すいたんの考え(るスピード)には、ついていけない」
こういうことだ。
そんなこと言われましても…というのがわたしの正直な気持ち。
わたしとしてはこれが当然で、でもどうやら確かに速すぎることがあるようなので、薬物の力を借りてまでそのスピードを遅らせているというのに。
それでもまだ、速いのか。
常々、わたしは自分の脳がコンピュータのようだと思っていた。ただし、あまり出来の良くない。
けれどだいちゃんは、わたしの脳は従来のコンピュータではなく、量子コンピュータなのだと言った。
つまり、
古典物理に沿っている現在のコンピュータは、古典ビットが初期状態としてあり、これに複数の演算がなされて、結果の古典ビットが得られる。これに対して量子コンピュータでは量子ビット(qubit)が初期状態としてあり、複数の演算がなされて結果の量子ビットが得られる。ここまでは古典コンピュータと似ているが、量子ビットは古典ビットと異なり、複数の重ねあわされた量子状態に対応しているところが量子コンピュータの特徴である(MYCOMジャーナルより)
これを端的に表す言葉として
「量子力学的重ね合わせの状態を使って超並列計算ができる」
と、高柳英明氏は言ったそうだ。


わたしの脳がこの量子コンピュータに例えられたことは、わたし自身が何の前知識もなく量子の世界にたどり着いてしまった事実から考えると、あながち見当外れな物言いでもないようだ。
ちょっと難しい話なので、もう少し簡単に説明してみる。
わたしにとってはこれが当たり前なので、他の人とは比べようがないのだけど、
何かについて考えるときに答えが同時に複数出てきて、さらにそこから各々派生する二次的三次的な問題にもほぼ同時に回答が出る。
これがわたしの自然な物事の考え方で、それはきっとみんなと同じように自然なものなので、人と会話しているときも自然に自動的にこういう作業が脳の中で起こっている。
しかしわたしの場合、同時に複数出てくる回答というのは、けしてすべてが同じ方向を向いてるとは限らない。
あまりに枝分かれしてゆくので、矛盾した回答も同時に成立してしまう。
だからわたしは悩み、分裂してしまうのだ。
わかりやすい例として、わたしは話がよく飛ぶ(と思われているらしい)のだが、一見わかりにくくても、それはわたしの脳内ではすべて繋がっていることなのだ。
だから、わたしは同じテンションのまま、まるで突拍子もない話を突然してるかのように思われるらしい。
わたしがよく長文を書いて、話があっちこっちに飛んでいるのも、その現れなのだけれどもね。あれはあの順番に思いついてるんじゃなくて、すべて同時に起こった思考を編集して書いているのです。
でも、こういう考え方っていうのは、どうもわかってもらいにくいものなんだ、ということを、わたしはいつか知った。
子供の頃は、「何を言ってるかちっともわからない」と言われて、「どうして?」と思うだけだった。「何でわかってくれないんだろう?」と。
思春期になると理解してもらえないことばかりになって、どうやらそれが他の人はまるで考えもしないことなんだということを知り、「どうしてちゃんと考えないの? みんな考えが足りない」と思うようになった。
大人になると、知識が増えてきて言葉で何とか説明をしようと努力するようになった。
けれど、論理的に話をしようとすると、人々はそれに気圧されてそこで考えることを中止してしまい、「おまえは屁理屈だ」と言う。
そこから、そうではないんだ、と必死に食い下がると、今度は「おまえは頭がおかしい」と言って、拒絶し、精神的にも物理的にも隔離されるようになった。
わたしの不幸は、こうまでなっても、他人と自分の違いを理解してなかったことだ。
ちゃんと説明すれば、いつかきっとわかってもらえると思ってた。
わたしはただ、みんなが考えることを放棄しているだけだと思っていたのだ。
でもそれは違うことを知った。違うのは、わたしの方だったから。
自分が人と違うことを認めるのは、容易な作業ではなかった。
初めは「まさかそんなはずはない、自分に限ってまさかそんな大それた病名がつくわけがない」と思った。今でもそういうところ、ないわけでもないけど。
けれど、普通に人と接して楽に呼吸をして、そうやって普通にこの社会で生活していくためには、まずそれを認めることが必要だった。
そのために時間をかけて自分の存在を認めて、速すぎる思考は薬でスピードを緩和させて。
でもこの薬のコントロールがとても難しくて、少なければ加速しすぎるし、多ければ思考停止(あるいは痴呆)してしまう。
脳みそカチ割って、中身見ながら調節できればいいのにねーといつも思う。
逆に、毎晩寝るときは多く摂って、思考を停止させないと眠れない。そこまでしても、睡眠中ですら脳の動きが止まらないこともよくある。
自分が人と違うことを理解してからは、もう表だって自分を出すことはしなくなった。
あきらめた、と言うと言葉が悪いけど、世の中無理なことは当然ある。
その代わり、人よりスピードが早い分、一周まわって少し後ろから様子を見るか、様子を見ながら並ぶことができるようになったと思う。
そうすれば楽しく会話できることもわかったし、他の人たちがどのへんまで考えるものなのかもわかった気がする。
ただ、友人知人の前では異常な緊張をするからそれもできることだけど、だいちゃんの前ではまったく緊張感がないので、どうしても素のスピードで物事を考えてしまいがち。
そして、ひとこと言ったところでその先にまで考えが至らないだいちゃんに、どうも苛立ってしまいがちでもある。「何でわかんないの?」って。
上のだいちゃんのセリフは、そうしたことに対するだいちゃんの反論なのだ。
けれど唯一、会話を経ればわたしの思考を十分に理解してくれると信用しているだいちゃんだけに、そんなことを言われるのは結構さびしい。
でも、だいちゃんだってわたしと一緒にいなければ、いつも禅問答のような難解な会話や生活をしないでも済むのに…とも、結婚してから何度も考えたことだった。
わたしはわたしなりに、自分を認めた今でも悩んでいないわけではなくて、つい先日も、
「無心になりたい…座禅!? 座禅くらいやんないと、わたしの脳が回転をやめることはないの!?」
と思い立っていたところだったので、だいちゃんに上のセリフを言われたとき、「実は座禅を考えてたんだ…」と話したら、
「すいたん…ヨガできないじゃん。無理だよ」
と却下された。
は、そういえばヨガできないんだった…やってると退屈を感じて寝るか、脳内フル回転しちゃうんだった…んじゃー座禅なんて無理じゃん!
瞑想ってどうすればできるんですか!?
だいちゃんはポロッと本音ももらした。
「老後になってもすいたんとは、のんびり…てわけにはいかないんだろうなと思ってるよ」
確かに、現時点でわたしは情緒あるものを解せない野蛮な人間である(わたしの情緒のなさはこちらで)。
老後でもガンガン、秘境とか行ってそうだ…。
でもこの間、だいちゃんと話してたの。
わたしのこれまでの人生は、眠れない人生でした。
数年前から、その時間を取り返すかのごとく眠るようになって(完全自力ではないが)、これからの30年は寝て暮らすかもしれません。
てことは、60!? 60歳からわたしの真の人生が始まる!? 今はまだ序章にすぎないの!?
だいちゃんは、わたしは160年は生きないと元が取れないって計算を出しました。
ごめん、だいちゃん。ということは、だいちゃんが生きてるうちは安泰な老後なんて望めないわ…。
量子コンピュータは、暗号を短時間で破る超高速性能を持っていると言う。
それは現在の人間にとっては、理想的なものかもしれない。
でも、わたしみたいに普通の人間に生まれた者にとって、脳だけが超越しているのは、幸福でも何でもないと思う。
いつも思ってるの、生まれた場所も時代も間違えた、って。
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