mercredi 16 août 2006 22:15
憤るな
なんでこの人はいつもこんなに憤ってるんだろうと思われる方はいるでしょうが。見たくない人は避けたほうがよかです。
長文だし。妊娠とあんま関係ないし。
これは妊娠する前のことなんだけど。
mixiで肘をついて食事をするマナーに関してのトピックで、「それはマナーとしてよくない、お里が知れる」と一斉に言い出したことがあり、わたしは大きな疑問と同時に、恐ろしさを感じた。
マナーとしてよくない、それはそうだろう。しかしその主張を補うのに、「自分は子供の頃そうやって親に躾けられた、それができてない人を見るとお里が知れる」と、みんなが口を揃えて言った、それがどういうことなのか。
お里が知れたら何なのだ。その人がきちんと躾を受けていなかったら、どうなのだ。
きちんと躾も受けられなかった人間を、私たちは大勢で一斉に軽蔑しますよ、とでも言いたいのだろうか。
軽蔑されたくなかったらきちんとした人間であるべきだ、それは確かに、しかしきちんとした躾を受けられなかったのは、本人のせいなのか?
戦後になってこれだけ豊かな時代が続いても、まともな躾が受けられない環境は当然ある、そういった環境で育った人間を、きちんとした躾を受けた自負のある人間が見下すのか? それがマナーができていると自覚している人間のやることなのか?
もちろん、言っている本人たちにそんな意思があるわけではなく、そのトピックでこんな指摘をする人はいなかった。ただ、「そうだそうだ」と口を合わせる人ばかりだった。
人間は自分を基準にしてそれが正しいと、理にかなっていると思うと、それ以外に目をやることが難しい。
自分がどれだけ幸福に育ったのかを語るために、そうじゃないケースを否定していることに気づかない、それを一斉に平気で言ってのけるやってのける種類の人間たちに、わたしはとてつもない恐ろしさを感じたのだ。
また、そのトピックではこうも言われていた。
「外国人女性が肘をついて食事をしてたが、みっともなかった」と。
もう日本人の傲慢さはいいかげんにしてほしい、おまえがどう思おうが、日本のマナーがどうだろうが、そんなの彼女の知ったことじゃなかろう。
なぜ違う土俵に自分たちのルールを持ち込んで強要する人がいるのだ、こんな発言はもう論外だ。
ブログやSNSで自分の日常を、主観を書いて公表できる今日、多種多様な考えがあるのを知ることができるメリットより驚かされるのが、わたしにとっては、あまりにも考えもなしに発言をする人の多さだ。
悪気がない分タチが悪いが、もっと多くの人に見られていることを念頭に置いて発言するべきだろう。
でも、もう一種類の不思議な人々もいる。
あまりにも冷静さに事欠いて自分の主張を通すことばかりに躍起になる種類の人々が、こんなにも多いのはなぜだろう。
彼らはなぜあんなにも感情的になったり、私怨をはさんだりするのだろう。
あれはまったく話し合ったり、聞き入れたりする姿勢ではないのだ、ただ自分の言いたいことを言い切りたいだけなのだ、そう思われても仕方ないのではないか。
なぜあんなに自分の主張ばかり通したいと思う人がいるのかが不思議だ。
誰が何と言おうと自分がどう思うのかは勝手だが、それを周囲に強要までするのは行き過ぎだと、なぜ気づかないのだろう。
それが顕著なのが一部の嫌煙家や、あらゆる差別主義者だ。
日本にはいまだに堂々と差別(対象は障害者、外国人特に朝鮮・韓国人、労働者など)を口にできる人間がいるのがわたしにはもう驚きなのだが(上のマナーに関するトピックの人々も、そう言えなくもないだろう)、一部の嫌煙家の人々の行動も差別にまでエスカレートしていることがあることに、本人たちばかりが気づいていないことがある。
愛煙家と嫌煙家の言い争いなんて結論は出ないのだから、正直言って見ない方が得策なのだ。
ただいつも気になるのが、自分の嗜好や権利を認めてほしいために冷静に慎重になる愛煙家に対して、一部の嫌煙家の人々は歩み寄ることもしないで自分の主張ばかり通そうとする。
自分が正しいということを楯にしてるのでそうなるんだろうが、世の中きれいごとばっかりじゃない、正しいことがいつも通ってきたわけではない歴史を何と考えているのだろうか。
彼らのは話し合いではないだろう、なぜ自分たちがファシストと呼ばれるのかを考えてほしいが、タバコを吸う理由に「かっこいいから吸っている」くらいしか思い当たらないのにそうだと言い切るくらいの想像力しかない彼らには、それもまるで思いもつかないことなのかもしれない。
よくよく、こういった種類の人たちには驚かされる。
わたしは元喫煙者で、喫煙者がそうならざるを得ない状況もよく見てきた人間でもあるが、自分と周囲の影響で喫煙に罪悪感を持つようになり、結局は自分の健康のためと経済的な負担がばからしいのでタバコをやめ、今は妊婦として喫煙・副流煙を避けなければいけない状態にある。
わたしの個人的な意見としては、自分の健康のために(それは将来の病気のことより、現在の体力のなさの方を考えた上でだけれど)もう吸うことはないだろうし、子供の体にもよくないものなら、今後も自分は吸わないという選択を続けてゆくだろうと思う。
でも他人が吸うことには何とも思わないし、禁煙席が空いてなければ進んで喫煙席にも座るだろう。
体への害をまったく避けて生きるなんて地球上では無理なのだ、できるだけの努力をするのはもちろんだが、ある程度は飲んだり譲ることも当然あっていいと思う。
一部の嫌煙家の人たちはタバコにばかり攻撃的だが、それ以外の地球や体への影響に対する考えが乏しいことが多い。だからいつも論拠に欠けていて、ただヒステリックさばかりが目立つような感があるのだ。
あーもういいや。疲れた。気持ち悪いし。今日はこのへんで。
わたしはまるで我が強くて、いつも憤ってるかのようだが、勘違いしないでほしいのは、わたしが提示しているのはいつも疑問である。
どうしても誰かに自分の言うことを聞いてほしいとか、理解してほしいとは思わない。
自分はこう思うんだってことを頑として言いたいわけでもない。
ただ、わたしが感じている疑問について深く考えてくれる人が少しでもいたら、わたしはきっと少しは憤るのをやめることができるのだろうなと思う。
でもときどき、自信がなくなるよ。
こんなこと言うだけ、考えるだけ無駄なのかなぁって。
けど、たとえ無駄であったとしても、わたしは鈍くはありたくない。
人の親になる身としても、子供が疑問を持つことができる人間になってくれればなぁと思う。
でも同時に、疑問なんか持たないほうが幸せなんじゃないかとも思う。
簡単に幸せにひたれるんじゃないかと。
わたしはもう絶対そんな生き方はできないけど、わたしの子供はわたしを見て、どっちの生き方を選ぶんだろう。
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