mardi 31 octobre 2006 22:51
いまいじめがあるということ
昨日に続いて、人を育てるということ、について考える。今日は現代のニュースを取り上げます。
スラムダンク奨学金設立
いよいよ、設立されたね〜。集英社もお金を出してるってことにちとビックリですが。
これ、とりあえず1回やってみて、その後の反応を見ていこうって感じなのかな?
若干名って、結局1,2名のようで、かなり狭き門だね…うまいこといって永続的な制度になればいいけど。
全国の高校・高専や専修学校に案内ってされてるんだろうか、そしてこれを生徒に推す教師ってどれだけいるんだろうか。
今後も注目したいです。
中田、マニラのスラム街訪問
映像も見ました。みんな楽しそうでした。
わたしは作られた中田が大嫌いだったけど、引退して自然に振る舞えるんなら、本人にとってはその方がいいのかな。
ただ、今回みたいにサプライズ的にやるあたりに、何かがいろいろ垣間見えたりしますが。
公にやっても美談にとられるし、こっそりやっても何だかんだ言われるし、有名人てのは大変だね…。
んで、岐阜の中2女子のいじめによる自殺なんですが…
わたしも高校からバスケ部だった。
でも校風のせいか、バスケっていう競技の性質か、またはたまたまなのかわからないけど、横のつながりも上下関係もとても良好で、練習で辛い思いもたくさんしたけど、結果的に3年間続けてよかったと思ってる。
だからか、何となくバスケ部といじめっていうのがつながらなくて。イメージになかったので、ちょっと驚いた。
偏見かもしれないけど、バスケ部よりはどちらかというとバレー部の方が、陰湿なイメージがあって…バスケってあんまし女の子っぽくないし。バレーはより女子っぽい、ていうイメージ。
実際に高校時代、バレー部ではなにやらレギュラーと補欠の間で何かあったとか、ていうのをバレー部の子に相談されたこともあったし。
わたしが知っている限りでは、中学時代はいじめがあった。
男子は知的障害のある子をいじめていたし、女子はいじめとまでは行かないまでも、集団で無視をされることがあった。
わたしもある日いきなり無視されたので困惑してたら、こっそり「順番で無視していて、今すいたんの番で、次は○○ちゃんだって」と教えてくれた子がいて、何じゃそらーとびっくりしたことがある。
男子も女子も必ずそういうのを仕切ってる子がいて、女子の中では「もーむかつくから今度はその子(首謀者)を無視しよう」なんて意見も出て、相談までしたんだけど、結局くだらなくなって実行に至らなかった、という思い出があります。
無視される方がまともな神経を持ってたのね〜。
わたしはそういったことの背景には、「田舎だからだな」と思ってた。
つっても都心から電車で30分もかからない郊外なんだけど、勉強はできても、考え方が洗練されている子がいなかった。
もう友達とつるむのが嫌になったわたしが、放課後に一人で本を読んでるだけで、
「一人で本読んでて、寂しくなーい?」
と、わざわざ言いに来る。
寂しいよ。できれば、一緒に趣味を分かち合える友達が欲しいよ。
でも、あんたらの中に、この本を理解できる感性を持った人間がいるか!?
「別に…」
結局わたしはそう言って、もう一度本に目を落とすだけでした。
あの地元で朽ち果てていった顕著な例が、わたしの小学校からの友人。
受験前にわたしと一緒に、後にわたしが入学する高校を見学して好印象を持ったにも関わらず、「姉が行ってるから」とかいう理由で地元のアホ高校(田舎なのでアホ高校しかないの)に進学、まんまと周りに流されて万引きやら外泊などで親を困らせ、あげく高卒でできちゃった結婚、それでも瞬間的に落ち着いたかと思われたが結局、離婚。
今は地元で子供育てながら受付嬢やってます。
特にお母さんが当時、とても憔悴しきっていたという話を聞いていたので、「アホか」としか思えん。
わたしはこういう環境がとても嫌で、友人たちとも「合わない」としか思えなかったので、学区内でできるだけ遠く、都心に近い高校に進学した(高校受験に関してはいろいろあったけど、また別の話で)。
カルチャーショックだった、何もかも。
制服がなく自由な校風のせいか、それともしっかり自分を持った子たちが集まったからなのか、とてものびのびしていて、すてきな学校だった。
自由の意味をはき違えないように、遅刻や欠席には周囲の都立校に比べて厳しく、あくまでも自己責任なので、落第する人も卒業できない人もいっぱいいた。
わたしが出会って仲良くなった子たちは、みんな個性的でステキな子たちばかりで、今でも仲良しです。
わたしがもっと普通に学校に通うことができていたら、もっともっと充実した高校生活が送れたんだろうなぁ、と、後悔しているくらい。
わたしにとってこの高校に進んだのは大正解だった(おかげでまた大学受験で苦労するが、それもまた別の話で)。
中学時代にあった陰湿な人間関係なんて一切なかったし、いじめらしきものがあったとも聞いたことがない。
さて、こんな記事もありました。
中2女子自殺、まじめさがいじめの口実か
まじめね〜、何がまじめってものなのか、お互いまだわかりもしない年頃なのに。
わたしはどっちかというと、まじめでない生徒だったよ。勉強も部活も。
「まじめに部活に取り組んだりするのが、かっこ悪く思えるんだろう」と、顧問から穿った見方をされたこともあった。
バスケが好きで入部したけど、団体で何かをやることは、どうしても上手くなれなかった。
プレイだけじゃなく、部員同士の関わり合いとか、何もかもストレスだった。
みんないい子だし、大好きだったけど、できないものはできない。問題はそんなとこにはなかった。
それに、それ以上に楽しいことを知っていたの。
バスケは単なる校内の部活動だし、そのときのわたしにはバスケよりそっちの方が大事だった。実際後に役立ったのも、そっちだし。
学校の勉強や部活をきちんとやれる子は、ほっといてもそこそこやっていけるんだよ。
でも生きていく手管っていうのは、その中だけで学べるものじゃない。
それは、いったい誰に教えてもらえるだろう。自分でそれをみつけられる出会いがない子は、どうすればいいんだろうね。
とにかく、当時は不まじめに思われていたわたしの方がよっぽど、後の人生でまじめすぎることが原因で、苦戦を強いられてるのも事実なわけで。
まじめさなんてのは、表面的なものとは限らないってこと。
でもこの子の場合は、帰宅して泣いたり自傷したり、サインを出してたじゃん。
それもまじめだから、攻撃の対象が自分にしか向けられなくて、その挙げ句が自殺でしょ。
サインを出せたり、遺書で名前を告発したり、そういうわかりやすいことができる子だったのに、周囲がそれを見落とすのはいただけない…。
こんなわかりやすい子すら対応できなくて、どうやってもっと複雑な子をフォローできると言うんだろう。
常々思っているんだけど、自殺するくらいなら部活なんてやめればいいし、学校だって行く必要ないのに。
どっちも、命をかけてまでやらなきゃいけないことじゃないじゃん。
でも、努力、や、続けること、を良しとして、”学校は行かなくてはいけないもの”ていう概念がはびこってるから、そうじゃないことはなかなかできないわけで。
だったら、周りの大人が教えてあげられればいいのに。
わたしも誰も教えてはくれなかったけど、自主的に学校に行かなくても、家や図書館で個人的に勉強してた。
学校は嫌いじゃないけど、集団で勉強はなじめない。一人の方がよっぽどはかどった。
ただ、登校拒否みたいなあからさまなことはしたくなかったから、学校に行くフリはしてたけど。
(この点、爆笑問題の太田さんが、友達が一人もいないのに登校拒否はずるいと思ってあえて皆勤賞をとるほど学校に通った、というエピソードがあったらしいので、すごく親近感を持ってます)
義務教育は必要かもしれないけど、学校に行く義務はいらないと思うなぁ。
勉強なんてやる気さえあれば、いつでもどんな環境でもできるんだし。
自殺まで追い詰められるような子なら、部活やめても死にゃーせんて、自分でわからないようなら、誰かが教えてあげるべきだったと思う。
でも、脳みそ筋肉質な人たちには、この程度で死ぬなんて弱いとしか思ってもらえないのかね。
弱い者は淘汰されて当然か? まだ、たった中2くらいで淘汰されるのが。
彼女はさっさとそんな部活やめて、他の夢中になれることを探すべきだったと思う。
そこまでしてバスケしても、楽しくないでしょうに。
そんでね、これもいつも思ってることなんだけど、中学なんてしょせん中学なんだよ。たった3年間しかない。
わたしの実体験からして、義務教育までってのは、ただ単にそこに住んでいるという理由だけで、団体生活を送らなければいけないわけ。
たまたま趣味嗜好の合う子がいればいいけど、そうじゃなかったら、何で同じ地域に住んでるってだけで、気の合わない人間と付き合っていかなくちゃいかんのよ。
大人の人間関係でも合う・合わないがあるのに、たまたま近くに住んでる子供たちが勝手にひとくくりにされて教室に入れられてるからって、みんながみんな仲良くなれるわけがないと思うんだけど。
団体生活を学ぶことは必要だけど、そのために気の合わない人間と無理やり付き合うことなんかないよ。
大人だって団体生活の中で、苦手な人とは上手く線を引くじゃんね。なんで子供にだけ「みんな仲良く」を強制すんのかなー。
わたしはこんなことを思っていて、早く中学を卒業したい一心で、必死に耐えたな〜。
で、高校は都立だから、生徒はみんな一定の水準の頭を持ってるわけで。
どんなに個性的な子でもベースの知識はあるから、それがすごく楽で、この学校に進学して大正解だった理由の一つだったと思う。
たぶん渦中の人間には、たとえ中学が残り1年ちょっとだったとしても、それは計り知れないほど長い時間に感じていたと思う。わたしもそうだったし。
明日も明後日も、小学生。その次も、中学生。高校生になっても、まだまだ先はうんざりするほど長い。
子供の頃の12年間は、大人になってからのそれとは全然重みが違うんだよね。
だけど、やっぱり彼女にはもう少し、せめて高校に入って視野を広げて信頼できる友達をみつけるか、一人で生きることも悪くないと思えるまで、辛抱してほしかったな。
そしたら、中学時代のアホらが、どんだけくだらなかったかってことがよくわかったはずなのに。何も命を落とすこともなかったなぁって気付いたはずなのに。
本人が思い込みすぎて冷静な判断ができなくなってたんだから、周りがおせっかいなくらいに忠告するべきだった。
嫌なら部活も学校もやめて、来るべき自分の時間のために力を蓄えておきなよ、と。
彼女は谷川俊太郎さんの生きるを読んでいたらしいですが。
わたしも小学生のとき、この詩が好きだった。それはヨハン・シュトラウスてとこが。
でも今思うのは、こんなに生を礼賛し価値を見い出すような詩を読むから、絶望するんだよ。
もっと生きてるってことがくだらなくて、大したことじゃないことを知ってれば、大げさに絶望なんてする必要もなかったんだと思う。
そんなひねったことがわからないような子なら、かくされた悪を注意深くこばむこと、この一文を素直に実行するべきだった。
結局彼女は悪を拒めず、拒んだのは自分自身だったんだものね…。
ところで上のリンク、タイトルをクリックすると一行ずつ最後まで、真逆な詩に変わっていく悪趣味なサイトかと思いきや、最後の最後で原詩の主題を導き出すという、なかなかオツなことをしてくれてます。ちょっとびっくりした。
目の前のくだらん日常なんて捨てて生きたって、時間はちゃんと流れるから大丈夫。
大人になってもまじめさが自分の首をしめて、余計なしんどさを感じてる人間だっているけどさ、それでも歳をとった分だけ、楽になれることはあるんだよ。
生きる辛さを忘れられなくても、こんな悪趣味な漫画読んで、毎ページ声出して爆笑できるような時間も持てるようになるんだよ。
わたしが思うに、やっぱり音楽はポップで、人生は笑えるくらいじゃないと。
彼女もあと1年ちょっと時間が経つのを待てば、そんな人生へのターニングポイントを迎えられる可能性も、あったんだと思う。
Comments [0]