samedi 28 octobre 2006 20:22

アンネ・フランクに学ぶ思春期と妊娠生活

「アンネの日記」、きちんと読んだことはないのですが。
興味深い記事をみつけました。アンネの生理に関する思いを綴ったものを抜粋したブログです。13歳から15歳にかけてまでの日記だそうです。
ここからさらに、今のわたしにとって興味深い記述を抜粋したいと思います。

1942年10月3日 土曜日
近ごろは、わたしもすこしはおとなの本を読むことを許されるようになりました。(中略)
『エーファの青春』には、(中略)エーファに生理があるといったことも書かれています。
ああ、わたしにも早くそれがくればいいのに。そうすればすくなくとも、おとなになったということですから。


1942年11月2日 月曜日
だいじなニュースをお伝えするのを忘れていました。もうじき初潮があるかもしれないってことです。(中略)
そしたらママが話してくれました。とっても重要なことらしいので、始まるのが待ち遠しくてなりません。


1944年1月6日 木曜日
さて、二番目は、とても話にくいことです。というのも、わたし自身のことだからです。
わたしがべつに気どってるつもりはありませんけど、ここのみんな、とくに女性が、トイレでなにをしてきたかをちょくちょく話題にするのを聞くと、強い嫌悪感で全身がぞわぞわと総毛だちます。
きのうのことですが、わたしはシス・ヘイステルの書いた赤面症についての論文を読みました。(中略)著者はざっとこのようなことを書いています。
思春期の少女は、とかく自分の殻にひきこもりがちになるのと同時に、自分の体に起こりつつある驚異についても考えるようになるものだ、って。
わたしもいまそれを体験していますし、またそのせいもあって近ごろでは、マルゴーや両親の前へ出ると、なんとなく気恥ずかしい気分になります。
不思議なことにマルゴーは、わたしなんかよりずっと恥ずかしがり屋なのに、そういう点では、ぜんぜんきまりわるがったりしません。
わたしの身に起こりつつあることは、すばらしいことだと思います。
たんに表面的な体の変化だけでなく、内面で起こっていることのすべてが。
けれども、こういう問題や、わたし自身のことについて、ひとと話しあうことはぜったいにしません。ですから自分自身と話すしかないわけです。
生理があるたびに(といっても、いままでに三度あったきりですけど)面倒くさいし、不愉快だし、鬱陶しいのにもかかわらず、甘美な秘密を持っているような気がします。
ある意味では厄介なことでしかないのに、そのつどその内なる秘密が味わえるのを待ち望むというのも、たぶんそのためにほかなりません。


1944年5月3日 水曜日
いままで二ヶ月以上も生理が止まっていましたが、日曜日にやっと始まりました。
面倒だし、不愉快なものですけど、やっぱり完全に止まってしまわなくて、よかったと思います。


---
子供であることの不利を知っていたわたしも、アンネと同じように初潮が来るまではそれは待ち遠しいものだった。
周囲の友達が徐々に女子トイレでこそこそ話し始めるのを見て、早く仲間に加わりたいと思っていた。
ところが実際にそれが来ると、やはりアンネと同じように不快感や嫌悪感を強く感じるようになった。
人の話はいくらでも聞くけど、こと自分のこととなると、途端に口が重くなって開かない。
そう、気どっているつもりはないけれど、わたし自身のことについては、とても話しにくいのだ。
嫌悪感をそのまま出すわけにはいかないから、気恥ずかしさとしてそれは行動や表情に出ていたけれども、不思議なことにとても女の子らしいと思っていた友人たちは、まるでそういったものをとっくに当たり前のように、全然決まり悪がらないで話してしまったりするのだ。
それはわたしにとって不可解であり、疑問となった。

わたしが知っていることは素晴らしいことなんだとわかっていた。
けれども、わたし自身のことについては人と話し合うことは絶対にしない、できない。
だから、自分自身と話すしかなかった。

自分に起こっている身体的精神的変化は、めんどくさくて不愉快で鬱陶しくて、なのに大人からは甘美な秘密を持っているように思われる。
本当はわたしもそれを、二度と手にすることはできない重大な秘密なんだとわかっていたけれども。
ある意味では厄介なことでしかなくて、だけどやっぱり神秘的であって、その内なる秘密を自分で味わったり隠したりしながら、女の子は大人になってゆくのだと、わたしはあるとき知った。
---


と、思春期における第二次性徴については、アンネの記述をもってして説明することができると思いました。

アンネは戦時下の過酷な状況で思春期を迎えて、いろいろ苦労もあったかと思います。
アムステルダムの隠れ家で8人の共同生活は、思春期で日々敏感な変化を遂げる女の子には、とても嫌悪を感じることも多かったんではないかと。
それに物資のない時代、満足に生理用品も手に入らない。
過酷な環境は、生理自体をも止めてしまう…。

でもアンネはとても素直な少女だったんですね、だからこれだけ全世界の人に愛されているんだろうな。
わたしも小学生から高校生くらいまで断続的に日記を書いていたけれども、たとえ誰にも見られることのない日記であっても、明解な記述は一切しませんでした。
だって人間が見なくても、頭上の目線は何でも見通してしまうかもしれないじゃない。


ところで、上の記述を受精から着床〜妊娠生活にも当てはめることができることに気付きました。
---
あぁ、早く子供ができればいいのに、それはとっても大事なことで、重要なので、妊娠するのが待ち遠しくてならない。
でも実際に妊娠してしまうと、別に気どっているつもりはないけれど、他の妊婦さんたちがちょくちょく話している身体の変化を聞いて、強い嫌悪感で全身がぞわぞわと総毛だつこともある。
妊娠中の女性は、とかく自分の体に起こりつつある驚異について考えるようになるものらしい。
わたしも今それを体験していて、そのせいもあって、この変化してゆく体で人前へ出ることが、どんどん気恥ずかしい気分にもなってくる。
なのに、とても不思議なことに、性に対して表面的には嫌悪を感じていて、普段は口に出すのも憚られる、といった風の女性たちは、妊娠や赤ちゃんの存在については、全然決まり悪がったりしない。
それはわたしにとって不可解であり、疑問だ。

わたしの体に起こっていることは、素晴らしいことなんだと知ってる。
単に表面的な体の変化だけでなく、内面で起こっていることのすべてが。
けれども、こういう問題については今や人と話し合うことができるのに、わたし自身のことについては、話し合うことはなかなかしない、できない。
だから、自分自身と話すしかないのだ。

どんどん肥えて大きくなってゆく体は、重たくて、めんどうで、ときどき不愉快で、鬱陶しい。
それにもかかわらず、甘美な秘密を持っているような気もする。
ある意味では厄介なことでしかなくて、だけどやっぱり神秘的であって、その内なる秘密を自分で味わったり他人と分かち合ったりしながら、人は子を産み、親になってゆくのだと、わたしは今身を持って感じている。
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生物の性徴は、胎生期に生じる第一次性徴、思春期に起こる第二次性徴とあって、魚類・両生類・爬虫類の雄などには、婚姻色を持って第三次性徴とすることもあるそうです。
もしかしたら人間の女性にとっては、妊娠〜出産することで第三次性徴を迎える種類の人がいるのかもしれない、なんていうことを書きながら思いました。

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